アキヒコ
最近、嫁さんの用事で娘とプラプラする機会が多い。 長文シリーズ。
「アキヒコ」
嫁さんが保育園タスク、育休明けタスクのため娘と乳母車でプラプラ散歩することが多い。
その度に興味のあるものに指差し 「あー!!」 と声を上げる娘 その度俺は
「それはブーブー(車)」 「それはポッポ(鳩)」 「それはワンワン(犬)」 「それはお巡りさん(警官)」
と説明して歩く。そうすればご機嫌なのだ。 ただし、全て拾うのは面倒くさくなる時がある
けど
「まてよ?」
何処かこの経験をしたことがある。 夢やったか。何だったか。
モヤモヤしていた。ブラジルでだ。 風景と顔は出てくる。 車の中でブラジルの桜に似た木が並んでて 屋台でパステルを四人で食うた後の。
名前が出てこない。
そうこうして、 今日の夜チラシを配ってたら思い出した
「そうだ!アキヒコだ!」 思わず言葉に出してしもた。
11年前ブラジルにいた時 僕は知らないお婆ちゃん家に転がり込んだ お婆ちゃんは戦後ブラジルに来た 日本人で80オーバー。
お婆ちゃんの息子の嫁は ※息子は亡くなったのか会ってない。
牧師さんでクリスチャンだった。 だから僕は毎週土、日曜日は教会に行った。 その息子の嫁の息子。 名前は「アキヒコ」といった。 お婆ちゃんはそう呼んでいた。
お婆ちゃんは日本人なので アキヒコは日系三世になる。のかな? 僕とだいたい同い年で養護学校に通っていた。
アキヒコとアミーゴになったおかげで お婆ちゃんファミリーに受け入れられた 親戚にも沢山会った
どうやらお婆ちゃんは街の名物ばあちゃん みたいだった、
アキヒコの母親の車に乗りよくリオクラーロ市内をドライブに連れて行ってくれた。 アキヒコは車が好きで良くお気に入りの車を見つけると指を指し 「ケン、ボニートネー」 と言う。
※ボニート(かっこいい) ポルトガル語のね〜は日本と使い方は面白いことに一緒 ここだと「かっこいいね〜」になる。 因みに男性だと語尾がOになりボニート 女性だと語尾がAになりボニータになったはず。
このアキヒコの問いかけに答えないと 彼は露骨に不機嫌になるので、僕は何にでも 「エウ、タンベン!」というていた。 ※僕もそうだと思う。的な意味。
そうするとアキヒコはメチャクチャ笑顔になる 正直面倒臭くて応えない時もあったが、僕がばあちゃん家にいれるのはアキヒコが僕を気に言ってくれたからなので彼に嫌われるわけにはいかなかったのだ。 住むところが無くなるから。
けどポルトガル語全然話せないのに行ったもんだから単語で話してくれるアキヒコの存在は大きかった。勉強になった。 おかげで外で一人で飯食うくらいはできるようになった。
「彼の指差し」と「娘の指差し」 が僕の中で繋がった。 彼は車にやたら詳しく 日本だとトヨタの車が好きだった。
けど名前が出てこなくて俺の記憶も衰えたなと思ってたが急に当時の風景と共に蘇った。
アキヒコが会いたいと云うてくれたら 街に遊びに行けるからご機嫌をとっていたあの日の汚え自分。
22歳の俺は根性がひん曲がってた。
10年くらい忘れてた気がする。 ゴメンな。アキヒコ。 君は今、生きているか?何してんだろう。
そういう個性を持った患者さんと絡んだり するフラグはここからだったのかなと思った
そして娘の指差しには全部答えるよ。 アキヒコあん時は適当にタンベン、タンベン言うてゴメンな。 あん時の変わりとかまたまた自分勝手だけど 娘の指差しはあの時の反省踏まえて、全部拾うよ。
いつかリオクラーロに行くのだろうか。 その家には行ける自信がある。
氷のような僕が人の愛に初めて触れた場所 だった。初めて家族愛に触れたのがブラジルだった 何処の馬の骨がわからない僕に優しくしてくれた。
部屋に帰る時刻んだ日本語で書いた文字は 部屋にまだあるのだろうか。 親父の遺品の靴はいていった。 その靴はあえて残してきた。 捨てられてるだろう。
娘が指をさす 「それはシルバニアファミリーのうさぎだよ。」
「アキヒコ」
嫁さんが保育園タスク、育休明けタスクのため娘と乳母車でプラプラ散歩することが多い。
その度に興味のあるものに指差し 「あー!!」 と声を上げる娘 その度俺は
「それはブーブー(車)」 「それはポッポ(鳩)」 「それはワンワン(犬)」 「それはお巡りさん(警官)」
と説明して歩く。そうすればご機嫌なのだ。 ただし、全て拾うのは面倒くさくなる時がある
けど
「まてよ?」
何処かこの経験をしたことがある。 夢やったか。何だったか。
モヤモヤしていた。ブラジルでだ。 風景と顔は出てくる。 車の中でブラジルの桜に似た木が並んでて 屋台でパステルを四人で食うた後の。
名前が出てこない。
そうこうして、 今日の夜チラシを配ってたら思い出した
「そうだ!アキヒコだ!」 思わず言葉に出してしもた。
11年前ブラジルにいた時 僕は知らないお婆ちゃん家に転がり込んだ お婆ちゃんは戦後ブラジルに来た 日本人で80オーバー。
お婆ちゃんの息子の嫁は ※息子は亡くなったのか会ってない。
牧師さんでクリスチャンだった。 だから僕は毎週土、日曜日は教会に行った。 その息子の嫁の息子。 名前は「アキヒコ」といった。 お婆ちゃんはそう呼んでいた。
お婆ちゃんは日本人なので アキヒコは日系三世になる。のかな? 僕とだいたい同い年で養護学校に通っていた。
アキヒコとアミーゴになったおかげで お婆ちゃんファミリーに受け入れられた 親戚にも沢山会った
どうやらお婆ちゃんは街の名物ばあちゃん みたいだった、
アキヒコの母親の車に乗りよくリオクラーロ市内をドライブに連れて行ってくれた。 アキヒコは車が好きで良くお気に入りの車を見つけると指を指し 「ケン、ボニートネー」 と言う。
※ボニート(かっこいい) ポルトガル語のね〜は日本と使い方は面白いことに一緒 ここだと「かっこいいね〜」になる。 因みに男性だと語尾がOになりボニート 女性だと語尾がAになりボニータになったはず。
このアキヒコの問いかけに答えないと 彼は露骨に不機嫌になるので、僕は何にでも 「エウ、タンベン!」というていた。 ※僕もそうだと思う。的な意味。
そうするとアキヒコはメチャクチャ笑顔になる 正直面倒臭くて応えない時もあったが、僕がばあちゃん家にいれるのはアキヒコが僕を気に言ってくれたからなので彼に嫌われるわけにはいかなかったのだ。 住むところが無くなるから。
けどポルトガル語全然話せないのに行ったもんだから単語で話してくれるアキヒコの存在は大きかった。勉強になった。 おかげで外で一人で飯食うくらいはできるようになった。
「彼の指差し」と「娘の指差し」 が僕の中で繋がった。 彼は車にやたら詳しく 日本だとトヨタの車が好きだった。
けど名前が出てこなくて俺の記憶も衰えたなと思ってたが急に当時の風景と共に蘇った。
アキヒコが会いたいと云うてくれたら 街に遊びに行けるからご機嫌をとっていたあの日の汚え自分。
22歳の俺は根性がひん曲がってた。
10年くらい忘れてた気がする。 ゴメンな。アキヒコ。 君は今、生きているか?何してんだろう。
そういう個性を持った患者さんと絡んだり するフラグはここからだったのかなと思った
そして娘の指差しには全部答えるよ。 アキヒコあん時は適当にタンベン、タンベン言うてゴメンな。 あん時の変わりとかまたまた自分勝手だけど 娘の指差しはあの時の反省踏まえて、全部拾うよ。
いつかリオクラーロに行くのだろうか。 その家には行ける自信がある。
氷のような僕が人の愛に初めて触れた場所 だった。初めて家族愛に触れたのがブラジルだった 何処の馬の骨がわからない僕に優しくしてくれた。
部屋に帰る時刻んだ日本語で書いた文字は 部屋にまだあるのだろうか。 親父の遺品の靴はいていった。 その靴はあえて残してきた。 捨てられてるだろう。
娘が指をさす 「それはシルバニアファミリーのうさぎだよ。」